本屋に立ち寄ったら、ある親子がこんな会話をしていた。どうやら歴史の児童書を読んでいたようだ。
息子「パパ、この義経ってどうなっちゃったの?」
父親「モンゴルの英雄になったよ」
誰でも聞いたことがあるかもしれない義経=モンゴル説。私も以前そんな話を聞いたけど、この説はちょっとない。
身長が違う:小さい義経と大きいチンギス
義経といえば、小さいという印象だ。大河ドラマや歌舞伎で義経が弁慶より大きいなんてまずない。
義経は現存する甲冑から身長を割り出すと147cmくらいだったようだ。小さいので弁慶と並べば、子供と大人ぐらい違う。
義経はちっこいけど素早いという逸話はある。八層飛びも小さい体でピョンピョンしている印象で、パワータイプという印象はない。どちらかというドラマでは弁慶の役割だ。
義経は色白でどうも優男という印象である。
ではチンギスの身長というと、大きいという記述が書き記されている。身長に関しては大きく、外見は立派であったらしい。ドラマでも大抵でかい印象である。
チンギスの前半生は不明であり、容貌や外見についての記憶を記した記録もチンギスがなくなってから記されたものである。
私としてはチンギスは外見が立派で強そうなイメージである。義経は色白な優男なイメージである。だから義経=チンギスと言われてもどうも納得できない。
独断専行な義経と人の話を聞くチンギス
義経と言えば戦が強い。平家を滅ぼした要因としては義経の戦の才能は大きい。ただ戦は強いけれど、どうも人の話を聞かない。
屋島の戦いでは暴風の中強引に船を出した。もちろん反対した武将達もいた。
嵐が来ているので今は待機。船が難破するので天気が回復するまで待ちましょう。と進言したかもしれない。
しかし、話を聞かずに自分の信頼している部下達と一緒に行ってしまった。勝利したからいいものの、あまりの無謀さに配下の不満はたまった。
それ以外にもどうも義経は人の話を聞かないで勝手にどんどんやってしまうタイプだったようだ。一説にはあまりの暴走ぶりに戦目付の梶原と不仲になったとの話もある。
では、チンギスはどうだったかというと、彼は仲間の話をじっくり聞くタイプだったようだ。というのも遊牧民は自立心が強い。リーダーが部下の話を聞かないで暴走すると、戦なんかやめて遊牧生活に戻ってしまう傾向にある。
チンギスはクリルタイという会議をしている。信頼のおける部下達と今度の方針について自分の組織をどうするか大方針を決めていた。そこでは各地から集めた情報をしっかり考えていた。
遊牧民というと手当たり次第に暴れまくる印象があるかもしれないけども、そんなことやっていたらモンゴル帝国を運営できない。
義経は戦に強く、状況が絶えず変わる戦なら即座に判断して行動した。そんな時に部下の話を聞いている余裕はない。義経は武将であるけど、政治はイマイチだ。
チンギスは独立心の強い遊牧民を組織したリーダーであり、モンゴル帝国を作った男だ。部下の話を聞かないで独断専行をしすぎると部下から愛想をつかれてしまう。しかもクリルタイは1日、2日で終わる会議ではないのでしっかり議論をするタイプである。
だから義経=チンギスはどうも合わない。義経は戦、現場で能力を発揮するタイプでチンギスは政治、組織運営が上手いタイプだ。
生活が違う
義経が生きていた場所は日本だ。チンギスが生きた場所はモンゴルだ。そんなの知ってると思うかもしれない。
だが、この2つの地域はまったく違う。というのも遊牧生活があるかないかである。日本の側からモンゴルとの違いを書いてみる。
日本では馬を去勢する文化はなかった。これは明治になるまで続いていた。だから義経の時代も日本では去勢をする文化はなかったと私は思う。
あと羊を多く飼うのが遊牧民の特徴だ。日本ではどうも羊はメジャーではない。遊牧民は羊の肉を食べるし、飼育するのは慣れたものだ。
この2つの違いに加えて、当然気候の違いもある。南宋を攻め込む時、モンゴルは南宋の暑さと湿気に苦しんだようだ。ユーラシアでは東から西へ勢力を拡大できるけど、北から南へと拡大するのは厳しい。
日本とモンゴルも南北差が違う。ちょっと考えて欲しい。私は北海道に行った時、あまりの寒さでちょっと体調を崩した。義経は日本からモンゴルへいったとしたらどうやって気候に慣れたのだろうか?
義経がなくなったのは30歳とされている。
30歳になって、文化も違う、気候も日本と違う場所で大活躍できるのだろうか?いくら義経が才能があったとしてもあまり活躍できなかったのであろう。
だから義経=チンギスは私としては受け入れられない。
助けてくれたコネをどうして生かさない?
私はチンギス=義経ではないと思っている。しかし、もし義経=チンギスなら平泉から北海道、樺太、モンゴルという道を辿ったと考えている。
当然、寒さも辛いし、義経にとっては初体験の地域である。船で渡ろうにも現地の人の助けを借りる。海流もわからないから、いつ船を出せばいいのかとアイヌの人にも助言を求めて、助けてもらったはずだ。
後年義経がモンゴル帝国を作ったとしたら、どうしてこの人達との関係を築けなかったのかという疑問が残る。せっかく世話になったのだから、交易ルートを確保できるわけである。
あと時助けてもらった義経です。今では帝国を作ったので感謝の気持ちもあるので、あなたの毛皮と南宋の珍しいものと交換しませんか?もし良かったら、私達の交易にも参加しませんか?
くらい接近してもいいわけだ。相手だって顔の知っている人なら安心するだろ。樺太経由で北海道まで交易ルートを開拓できたかもしれない。
けどチンギスは後金、ホラズムへ進出した。樺太へ行かないのはどうも納得がいかない。やはり義経ではないと私は思う。
あと、チンギスが無くなった後、モンゴル帝国は鎌倉幕府と戦った。その戦場は主に北九州であった。
モンゴルが負けた原因の1つとして暴風雨がある。しかし、これ現地の気候が詳しい人がいたら、予想できたわけである。義経なら夏に天気が荒れることは知っていたはずだ。
彼は壇ノ浦で関門海峡で戦った。当時の海流について気を使い情報だって収集したに違いない。
もし、義経=チンギスなら、夏の日に朝鮮半島の南に向こうにある大きな島で嵐がある時期について言い残しているはずであろう。
戦だけでなくモンゴルは交易で拡大した帝国だ。船が吹っ飛んでしまう嵐は避けたいと思うので、天気について教えているだろう。けど、モンゴル軍は嵐にあってしまう。
情報を大事にするモンゴル帝国らしくない負け方である。義経=チンギスなら九州の戦について、言い残すだろうし、樺太へなんらかの関心へ示しそうだけどしていない。
まとめ:義経=チンギスは納得できない。
私の思い描く義経は戦に強くて、色白の優男。政治には疎いけど、純粋な少年のような印象だ。
一方私の思い描くチンギスは組織運営に長け、負けないように情報を重視、利益もちゃんと分配する。絶対的なオーラを放つリーダだ。印象としては大河ドラマやコーエーの武田信玄に近いかもしれない。
2人の印象は私の中では全く合わないので同一人物ではない。