「人の命は平等」「人は存在しているだけでいい」。正しいことなのはわかっています。しかし、遠くの人や知らない人が生を終えても特に感じることもない日常を過ごしているのも事実です。
命は平等なのに何故に何も感じることもないのかな?俺っておかしいのではと考えてみました。結論を先に書くと「その命に対して知ることで感情が生まれる」と言っておきます。
今回は遠くの人、知らない近所の人が死んでしまったのに、どうして何も思えないのか疑問を抱いた人のために書かせてもらいました。
人はただ生きているだけ
アドラー心理学で人は生きているだけで価値があると書かれています。どういうことかと言うと「赤ん坊」のことを考えてみるといいわけです。
赤ん坊は1人では生きていけません。トイレも食事も睡眠も着替えも親が世話をしないと赤ちゃんは大変です。別に何か見返りがあるわけでもない親は頑張って世話をします。
何故かという存在しているだけで価値があるから。「人は存在しているだけで価値がある」というは納得していました。
しかし、ふと思うわけです。世の中で死んだ人はいっぱいいるのに、その人達が死んだら悲しいはずなのに私は毎日何事もなく過ごしています。ニュースでアメリカで何人の人がなくなったと聞いても、「うん、死んだね。味噌汁おいしいや」と思う程度です。
両親や友人が死んだら、とても悲しいわけです。葬式に行って、泣きます。その日は感情が整理できずに、誰かに愚痴を聞いて欲しいものです。
どこの誰であろうと存在しているだけで価値があるわけです。国籍や人種は関係ないのに、何故死んだことに対して違いがあるのだろうと考えていました。
人の命は平等なのに、何故に違う気持ちを抱くのかと。俺は命に対する差別や偏見を持っているのかと暗い気分になりました。
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知ることで、人はただ生きているだけの存在に対して感情を生み出す
その暗い気分になりながら、答えのようなものが出ました。まず人はただ生きているだけです。どんなに精神的に心臓は勝手に動くわけです
両親がセックスをして、母親が子供を出産しました。そして子供が生まれました。「ただ生まれた」だけな存在です。
今もどこかで、この先も子供が生まれます。生物は人に限らず、子供を産むことで種の存続をはかります。ただそれだけのことです。
だからね、人がどこかで死んでしまっても特に感情を動かしません。悲しいけど、これ現実です。
人は存在しているのではなく、ただ生まれて勝手に生きるだけです。生まれて、生きるだけでは価値なんてありません。
じゃあどうすれば存在しているだけで価値が生まれるのかと言えば、それはその命と触れ合うことで生まれるわけです。先ほど赤ちゃんを例に挙げました。
赤ちゃんは何も出来ないけど、親があかちゃんを世話します。夜寝たいのに、赤ちゃんが泣いて眠れません。トイレも大変、服も揃えないと大変。まあ大変なことだらけだけど、子育てをする時点でその赤ちゃんと触れ合っているわけです。
その時点で触れ合った人に対して価値を見い出します。その価値が愛情になるのか、はたまた憎しみになるのかは私にはわかりません。しかし、何らかの価値が生まれるのは間違いありません。
おそらく赤ちゃんが不幸にもその命を終えてしまえば、両親は気が動転します。
じゃあこれは幼い命だけなのかといえば違います。大人であろうとも変わりません。誰かと触れ合うことだけが手段ではありません。誰かと会話をして、飯を共にして、一緒に暮らす。誰かのことを知るそれだけでその人に対する感情が生まれて、生きているだけでいいじゃんと思えるのかなと。
人だけでなくもしかしたら競走馬もそうかもしれません。サイレンススズカという凄いスピードを誇る馬がいました。ただこの馬はG1天皇賞のレース中の故障で天国へ旅立ちます。
競馬に興味を持つ前は、サイレンススズカが死んでしまったという事実は知らないので何も思いませんでした。競馬の雑誌や週刊誌で亡くなった11月1日を何事もなく過ごしていました。
ただサイレンススズカのレースやDVDを見ると、天皇賞を最後に終えてしまったことに色々思うわけです。知る前は何も思えなかったのに、知った後で感情が生まれるわけです。
知れば無感情、無関心になれない
知ることで無感情、無関心でいられなくなります。さらに知るだけでなく、その人と会話し、飯を食い、一緒に時を過ごすことで何か価値を感じます。
人はただ生きるだけでは価値はありません。お互いが知ろうと歩む寄ることで価値が生まれるのです。
だから誰かが死んでいるのに、何も悲しくなく無感動な自分をおかしいと思わんでください。知らないものになにか感情が動くことはないのですから。