私は1日に1回は気分が落ち込むことがある。一体自分が世間から見て、後ろ向きなのかはたまた前向きなのか自分でもよくわからない。
ただ、むかつくことや気分が落ち込んでやる気がなくなりそうな時でも気持ちの持ちようでなんとかしている。
私は聖人君子でもないので世の中や人間にむかつくことがある。だかそんな不満があっても一応寝る前にはある程度満足して寝ている。
なんかむかつくけど前向きになれたらいいかなと思って、この記事を書いた。参考になれたら幸いです。
地球のどこか人が死んでいる
世界では人が死んでいる。死なない1日はない。日本なら老衰、自殺、いじめが原因で亡くなってしまう人もいる。
私はどんなことをしようとも、どんな気分であろうとも決して変えられないことだ。家族と一緒に料理を楽しく食べていようとも、どこかで人間が死んでいると思うと気分は晴れない。
1日でやるべきことをこなして、自分なりに充実感を感じようとも、どこかで人は死んでいる。
今は誰かを救うために何かをやるべきなのかもしれないという気持ちもある。なにかの理由で死んでしまった人の頑張ろうと決意しても、また人は死んでいるのである。
今文章を書いているけど、1分間で地球のどこかで命の火は消えている。どんなに頑張って変えられない現実だ。
どうしようもない。世の中どうしようもないことってあるのよ。だから世の中で嫌なことがあるのは当然だと思って、自分のやるべきに力を尽くせばいいとしか私は思えない。
迷惑だなと思う時もあるけど
私はアルハラで仕事を辞めてしまった。その職にしがみつけば、年収200万は確実だった。とりあえず社会保障も金も安定していた会社だった。
その会社にいれば、社会、地元の人の迷惑にはならないと思っていた。だから、辞めた時、年収もなくなり、無収入の自分に絶望した。
自分は社会のクズになったと。ニートでどこにも仕事をしていない社会の失敗者。
だけど、勉強をして思った。人間はとんでもない迷惑な存在だし、仕事をしていた頃、アルハラに会わなかった自分はとんでもない迷惑な奴と自覚した。
お金を稼いでいようとも、今の社会に適応して成功しようとも、どこかで誰かに他の種に迷惑をかけている。その迷惑がどこだけ大きいのか小さいのか私には把握できないけど。
だから今の自分がとんでもない迷惑な存在で絶望しているなら、そんなに気にする必要ないだろと私は思う。
どこかで誰もが誰かに迷惑をかけているのだから。
自分の嫌いな人が活躍している時
自分にとって嫌いな人、気に食わない人が社会的に成功していると良い気分にはならない。腹が立って、ストレス解消に走る時もある。
だか、そんなこともしてもその人に対するストレスは消えない。私はそのストレスに対処する方法としてどうしてむかつくのか、その人はどんな人なのかよく調べることだ。
自分にとって気に食わないということはそのことに関してこだわりや思いがあるわけだ。特に興味のないことには嫌いも好きもないのだからね。
私なら今のところ興味がない、知らない分野は水泳である。だから何か水泳に関して何か書いてみろと言われても、書きようがない。
逆に好きなことは読書、歴史のことである。自分のやり方と違うことではなく、明らかに自分にとって違和感を感じたら、そのことを調べてみる。
ちなみに私が嫌いな作者は以下のことを9割くらい満たす人だ。
- 俺は凄くて専門家は馬鹿と言い張る
- 参考文献を8割ぐらいの割合で書かない
- 批判するのに証拠を出さない
- 専門家が見つけたデータを自分の手柄とする
- 俺はなんでも知っているから俺の話をまず聞けというスタイル
- 確かな証拠もなく断定する
- 言っていることが一緒で話の切り口も一緒
- 批判対象が同じタイプの奴しかいないと断定する
- 自分の論理が上手く説明できないことを敵対勢力に責任転換する
- 専門家に橋渡ししない
- レッテル貼って個人攻撃と人格批判
その嫌いな奴がどんな奴なのか分析する。分析することで自分にとって嫌いなことが具体化される。そうすることで自分の中でなんとなく正解が出る。
出たら、私はなんとなく気分がスッキリした。自分にとって気に食わない人はそういう人なんだねと受け入れて、批判すればいいのである。
そして、その人の失敗を自分にとって反面教師と思うことが大事だと心に誓う。その人のことから学べることって案外あるものだ。
ネットで暴走する誹謗・中傷の嵐を見る時
ネットで誹謗・中傷で苦しんだ事件があることを私は知った。それ以来私は誰かの文句を言うなら、それなりの証拠を持って、非難しようと思っている。
だが、ツイッターや掲示板を覗いてみると文句を言うことでそのコミュニティーの中で優位性を誇る行動が見られる。
過激や言い分が好まれるわけだ。そういうのを見ると被害で苦しんだ本を読んでので、嫌な気分になる。
だけどね、その事件ではネットで書きたい放題していた人は最後には捕まってしまったのだ。私はそういった過激なことを書く人を見ることで自分も加害者として捕まる可能性があることを考慮している。
犯罪者に会わないために工夫をすることはもちろんだけど、犯罪を起こさないように工夫することも大事だと言うことをネットで誹謗・中傷を見るたびに思うことである。
そんなことを思っていると、ネットで書きたい放題している人に対するむかつく気持ちは消え、加害者にならないための心づくりの方に傾いてしまっている。